アイヌの残した渓 T
8月盂蘭盆(うらぼん)。30年らいの習性になった、東北渓流釣りの旅。今年も出かけてしまった。現役のときは,このころしか長い休暇が取れなかった。ヤマメ釣りには最も過酷な時節なのに,北へ向かったのには訳けがある。暑さから逃れるためでもあり,各地の山村に残る、素朴なお盆行事に出会う楽しみもあった。断片的にひとつの情景が記憶に焼きつくだけでいい。風になったつもりで、その村を通り過ぎて行く、あわただしい旅でもあった。西馬音内(にしもない)の盆踊り,遠野の獅子舞などは、一種の哀愁に包まれた記憶の中にある。
ヤマメが釣れようが釣れまいが,それはどうでもいいのだ。いつも目的が茫洋としていながら,気持ちのどこかで、失われてしまった心象風景を探していたのかも知れない。ところが今年は違った。ある目的が加わった。それは___
* * *
ある時、毎日が日曜日になった。「サンデー毎日か」としゃれにもならない言葉でからかわれた。時間はたっぷりある。そうだ30年来の夢を実現させよう。当時一つの言葉が、文献を集めさせ,夢を膨らませて行ったものだった。
「あそこには、イワナもヤマメも足にぶつかるほどいて,釣り登るのではなく,釣り下がるんだ。尺を超すアメマスがいて糸を切られるから、そいつを釣らないようにヤマメだけを狙うんだ」
まさに夢のような北海道の渓流に思えた。しかし,やっと実現したのは2年前(1998)の秋だった。昔集めた本をあらためて読みあさった。地勢,文化,歴史と北海道に関するあらゆる分野のものだった。中でもアイヌ民族の歴史と生活にいたく心引かれた。そして釣りに行くのだから、川の名前とその意味の由来だけは事前に調べておこうと考え、1ヶ月も文献と首っ引きで地図に記入していった。そうこうしているうちに、北海道の地名の90%以上が川から来ていることに気がついた。川と密着していたアイヌ民族の生活様式、心のどこかで羨望にも似た憧憬を抱いていたから、小樽行きフェリーの中ではいっぱしのアイヌ語通になっていた。
一昼夜の船旅ではあったけれど、退屈することはなかった。サウナから出てはビールを飲み、うたたねから覚めればデッキでコーヒーを飲みながら読書。久しぶりに味わった至福の時間だった。10月上旬、海上は凪いでいたけれど、雲が重く垂れ込めていた。夕刻、男鹿半島の沖を通り過ぎた。かすかに寒風山の影が見えたような気がした。北上するにしたがい、暗い海は晩秋か、初冬を思わせていた。
天候とは裏腹に、気持ちは高揚していた。何しろ30年も想い続けた未知なる恋人(渓流)にもうすぐ会えるのだ。
「小樽へ着いたら、どっちへ行くの?」
相棒は北上するのか、南下するのか聞いているのだ。なんとも妙な質問には違いない。実は3日前、電話で彼とこんな会話を交わしただけなのだ。
「北海道へ釣りに行きましょう。都合はどうですか」とぼく。
「ええいいですよ」と彼。
「じゃ、フェリーの切符買っておいてください」
自分ながら、呆れてしまうほどアバウトなのだ。長い付き合いだから、阿吽(あうん)の呼吸が出来上がっているのだろう。お互い気を使わない。しかし心のどこかに、相手を思いやる一定の水準を保持する。友情を長続きさせる普遍的な真理であろう。
「どうせ1週間や10日で北海道を全部回るのは無理ですから、今回は道南にしましょう」
彼はぼくの提案に、めったに異議を申し立てたことはない。
「そうすると、積丹半島へ向かうわけですね?」
「日本海側を下って函館へ出て、太平洋側を苫小牧まで。そこから高速に乗っかってまた小樽へ戻るルートにしましょう」
「それにしても、ヤマメの印がついた川がいっぱいありますよ。10日くらいでまわれますか?」
「川を見るだけでもいいじゃないですか。写真を撮ったり、今回は下見ということにして、出来るだけいっぱい回りましょう。道南の紅葉は真っ盛りでしょうよ」
「明朝4時過ぎ小樽入港ですから、最初の川で夜明けですね。この川、コダイラガワと読むんでしょうか。それともコヒラと言うのかな?古い平の川と書いてありますが」
彼は独り言とも質問ともつかずつぶやいていた。眠くなり始めたぼくは、あいまいな返事をしていた。
「下船に手間取って夜明けが早くなったら、手前の塩谷川とかフゴッペ川に入りますか?でもここにはヤマメのマークがないからだめか」
地図を見ながら、相棒の独り言は延々と続くように思われた。睡魔が襲ってきて、最初の質問に答えるのがやっとだった。
「それはフルビラ川と読むらしいですよ」
でも川の名前だけが、やけに鮮明に頭に焼け付いていた。最新のパソコンより検索速度は遅かったけれど、 しっかりアイヌ語としてスキャンしていた。古平川はフレ・ピラ、赤い崖だ。塩谷川は、シューヤ(鍋岩)かソヤ(岩礁の多い海岸)の川の意だし、フゴッペはフム・コイ・べで波音の高い所の川という意味だ。検索はしたけれど、音声の出力にはならなかった。かわりにシャットダウンしかけたぼくの鼻からは、いびきの雑音だけが出ていたらしい。
2日目の夕方、島牧村の泊川を渡ったところで、船内で決めたルートを完全に放棄せざるをえなくなった。R229は瀬棚町の手前で、トンネル工事のため当分の間通行不能とあった。狩場山(1520m)から海岸線まで直線距離にして約8km。通行止め区間は急峻な山岳地帯だ。迂回路もない。しいて目的の川を目指すとしたら、遠回りで1日くらいのロスを覚悟しなければならない。目と鼻の先には、どうしても見ておきたい2本の小渓流があったのだ。1本は切梶川・キリカッチニイチャンナイ、サケの産卵場のある川。もう1本は島歌川・シュマオタ、この海岸線を象徴するかのように、石の浜川と訳せる。ぼくの地図には、2本ともヤマメの多い川と記入してある。
海岸線から3,4km上った泊川右岸に、古めかしい宮内温泉があった。フェリー以来の風呂にありついた。ルート変更の相談はまとまった。
コベチャナイ川に沿って内陸部へ。黒松内、長万部のルートが太平洋岸へ抜ける最短距離だ。登別、白老、苫小牧と北へ向かう。本当はこの旅の最終日に、苫小牧のある洋食レストランで食事をする心積もりだった.。R36からちょっとはいったところにあるはずだ。雑誌で仕入れた情報によれば、ビーフシチューとハヤシライスが旨いとある。知らない街でようやく探し当てたそのレストラン、第一洋食は、あいにくの休みだった。大正か昭和初期の洋館を想像し、かたくなに昔の味を守っているに違いない、と楽しみにしていたのだ。
文字通り横道にそれてしまった。ここでは、グルメや釣行記を延々と書くつもりはない。先を急ごう。
完成間近の日高自動車道は、無料開放されていて、沙流川で終わっていた。この川を上って行こう。二風谷のアイヌ文化資料館だけは、通り過ぎるわけにはいかない。ニ十数年前、NHKの新日本紀行で見た映像の残滓が記憶にあったけれど、どうしても現在の風景と重ならない。巨大なダムが出来、ファミリーランドなどに彩られ、観光スポットに変わり果てていた。
マレプ(回転銛)を駆使してサケを捕獲していた、かってのアイヌ文化はどこにも見当たらない。第一ダムがサケの溯上を阻止しているのだ。和人(あえてこの言葉を使わせてもらう)は、蝦夷(北海道)が歴史に登場した時から、アイヌ文化の破壊者だった。この巨大ダムが象徴するように、今も同じだ。
「アイヌモシリ」(人間の静かな大地)と誇りを持っていたアイヌ民族。その言葉も、生活習慣も、すべて消え去ろうとしている。まさに風前の灯なのだ。資料館では、かねがね欲しいと思っていたアイヌ語辞典を買った。少ない旅費の中から、馬鹿にならない出費ではあったけれど、民宿を二晩野宿に変更すれば済むことだ。
日高町から日勝峠、狩勝峠と二つの峠を越えて富良野へ出た。どうせ富良野へゆくなら、日勝峠は越えない近道があったけれど、つい観光客に変身してしまった。小説によくでてくる有名スッポットでもあり、峠下のウエンザ川でオショロコマの生息を確認したかった。
北海道・ニュウブ川の秋(1998年10月)
旭川、名寄とひたすら北上する。美深からニュウブ川に沿ってオホーツク海へと向かった。分水嶺を越えれば、道北の二大名渓のひとつ、徳志別川が流れているはずだ。トクシシペッ,[アメマス川]にふさわしい雄大な渓流だった。アメマスの影こそ見えなかったけれど、サケの大群が産卵行動に入っていた。
旅人は未知の風景に感動を覚える。日常的に、橋の上からサケの産卵を観察できる場所など、内地にはない。快晴。終わりに近づいた黄葉、しかしまだ十分な色彩を保つ渓畔林が水面に映って、徳志別川は輝くばかりに美しかった。竿を出し、ヤマメと遊ぶ気にはついにならなかった。
歌登、枝幸、浜頓別と北上を続ける。クッチヤロ湖畔で民宿を見つけて投宿する。実はその名前に惹かれたのだ。トカシ、正式なアイヌ語表現ではないかも知れないけれど、分解すれば、ト・カシ、湖、狩小屋だ。つまり湖畔の宿というわけだ。かっていっせいを風靡した、高峰三枝子の歌にそれがあった。10月中旬、道北はすでに晩秋の趣だった。枯れた葦原の向こうにクッチャロ湖が波立っていた。
思ったより清潔で、小さなシングルベットの置かれた寝室は、瀟洒な感じがした。小樽からここまでの記録をとる。数10本の川へ入り、そして百以上の町や村を通り過ぎた。その都度、川や集落の名前を相棒に解説してきた。記憶を確実にするのと、退屈な運転を紛らわす効果を考えていた。
日記をつけ終わっても、まだ夕食まで時間があった。食堂兼リビングに降りていった。中年の先客がいて、オーナーの女性と歓談していた。つい3時間前、ぼくたちが通り過ぎた北見幌別川の支流、ケモマナイ川に、サケの写真を撮りにきたのだという。ここにはサケのジャンプを撮影する、絶好のポイントがある。そのことは、新潟の地方紙にも写真が載るくらいだから、知っていた。大阪からという客は、それを撮影するだけのために、毎年この時期やってくるのだという。プロのカメラマンをも凌駕するバイタリティーには脱帽した。サケが滝を越え、産卵場を目指す本能行動にせよ、自然界の生物が繰り広げるドラマに、人はここまで思い入れが出来るのだ。
21世紀のキーワード[環境の時代]は、こういう人たちがいる限りそう悲観したものでもなさそうだ。
稚内からは内陸部に入らず、ひたすら日本海を南下する。天塩、留萌、石狩、小樽と三日かけて小渓流を探索した。流域には、放棄された農地に朽ちかけた建造物がわびしく立っていたりした。まもなくやって来る冬を想像し、北の大地がいかに厳しいか思い知った。放置された農地は、やがて雑木林になり、原生の自然へと回帰する。これも望ましい姿なのかも知れない。
約10日間に及ぶ北海道の釣り旅は、アイヌ民族が残した地名をなぞるものになった。地名から、過去と現在を対比させながら北海道を考えるとき、旅人のぼくにとって旅愁ならぬ悲愁が残った。虐げられてきたアイヌ民族の歴史もさることながら、川や土地の名前を○○線川××線区などと変更したのには正直腹が立った。文献や資料が散逸しないうちに、早く元の名称に直して欲しい。チェプ・サク・ナイ(魚のいない川)を精進川と翻訳したユーモアはまだ許せるとしても、数字の地名や数字の川名だけはいただけない。先住民族に対する、和人のあこぎな仕打ちに、心からの謝罪を込めて推進してほしい。
ボーダーレスとか国際化が叫ばれながら、多くの人たちは理解できないでいる。まがりなりにも戦後の民主主義が、五十数年経過した今でも、同じ民族でありながら同和問題がくすぶっているように、他国から見たら、「ばっかみたい!」と言うことなのだろう。卑近な例をあげてみよう。
高校時代のクラスメートにH君がいる。将来の夢や、生意気にも現実の政治を語り合った仲だった。
卒業後お互い上京した。彼は文系へ、ぼくは理系へ進んだ。数ヵ月後、吉祥寺のすし屋でビールを飲んだ。あれ以来、45年も彼と会っていない。彼にはことのほか懐かしさがあるのだけれど、同級会に絶対出てこない。あれは何時のことだったろう。折りしも、時の総理大臣が逮捕される前後だったのだろうか。中央のマスコミや知識人が、一斉に田中角栄非難のプロパガンダを発していたころだ。彼がクラス会に出席できない理由を、返信ハガキに書いてきたのを、今でも覚えている。
「恥ずべき政治家を出した新潟には帰る気がしない!」
というものだった。ぼく自身、当時のマスコミの論調から、新潟県民として、肩身の狭い思いいをした記憶がある。卒業して中央のM新聞に就職した男だから、その理由にうなずけないこともなかったけれど、あまりにも陳腐な言い訳だ。アイツ一流のジョークに違いない。とぼくは思い続けてきた。それはある意味で正解だったかも知れない。それからも依然、彼の参加はなかった。いったいどうしたのだろう。同じ町の出身者に聞いてみた。その答えを聞いて、唖然としたのである。
「そんなばかな!」
とぼくは言ったと思う。H君はアイヌの娘さんと結婚し、それが原因で実家から勘当(ずいぶん古い言葉だ)されたのだと言う。先取的言動をしていた彼でさえ近づけない、保守的な田舎が厳然と存在していたのだ。
他国や異民族の文化を、素直に理解しようとしない日本人は、21世紀の世界から取り残されるのではないかと危惧している。学校だけでなく、社会人の間にも存在するイジメの構図は、情けないほど日本的なのだ。異質なものに対する排除の論理は、現代社会から抹消しなければならない。それなくして真の国際化などありえない。
蛇足になるけれど、H君のジョークを紹介したからには、その対極も書いておこう。2000年4月。やはり高校のクラスメート小林一喜君から本が送られてきた。
戦後精神における近代と超近代
〜田中角栄にみる“地”民主主義の立ち上げとその軌跡〜(文芸社¥1,300)
難解な題名と長ったらしい副題がついているけれど、内容的はそれほどムヅカしくない。H君とは逆に、角栄擁護論を書いているのだ。ぼくはこれも大いなるジョークだろうと確信している。田中角栄の政治家としての軌跡を辿り、そして対比させながら、戦後民主主義の理論的指導者であった、いわゆる知識人や学者、それに迎合したマスコミを痛烈に批判し、彼らの論理がいかに皮相的で、欺瞞に満ちていたかを説き起こしている。だから角栄擁護論はジョークで、本当に言いたかったのは、いまだ未成熟な戦後の民主主義だったのだろう。現実を見れば、彼の意見は正しい。
異質なものへの優しさ、寛容、理解の精神の醸成、それが成熟した民主主義への近道であろう。
北海道の旅は、多くの事を考えるきっかけになった。
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