アイヌの残した渓  U

 北海道へ釣りにいこうと、川の名前を検索しているうちに、ずいぶんアイヌ語を覚えた。そのことから改めて内地の地図を見ると、アイヌ語地名と川の名前が多く残されていることがわかる。ほとんどが漢字の当て字で、もとのアイヌ語を連想するのはそれほど難しくない。彼らのネーミングのパターンは決して抽象的な名前ではなく、必ず生活に根ざしたものだった。今年の東北渓流釣りの旅は、そのアイヌが残した渓流を回ることにしたのである。
 アイヌ語として認識できる地名が現れるのは、日本海側では福井県から北、太平洋側では水戸から上、内陸部では那珂川流域から北で急に多くなってくる。圧巻は阿武隈川流域と、阿武隈山地、そして福島県の浜通り地方。ここは一見アイヌ語風地名の密集地である。
 登別、幌内、旭川、稚内など、北海道の地名のほとんどが川の名前から転化したように、最初のうちは内地の地名もそうだったに違いない。ところが、縄文から弥生時代の移行期に、アイヌ民族は北へ北へと追いやられるのである。すると本来使われていた言葉の意味がわからなくなり、弥生人の新しい意味を持った言葉として定着して行った。アイヌ語風と定義したこの密集地帯の地名が、大部分アイヌ語として翻訳できないのはそのためである。
 それは多分こういうことだろうと思う。北海道の有名な川、空知川などを例に検証してみよう。空知川のアイヌ名は、ソ・ラッチ・ペッ
滝が並んでいたのでこの名がついた。石狩川の合流地点に滝川市がある。また空知川左岸に歌志内市があり、下流部に隣接して砂川市がある。二つの市を貫流してやや小規模の川が流れている。歌志内あたりはもともとペンケオタウシナイといい、上流にある砂浜の多い川の意味で、ペンケが取れ、オタシナイ、歌志内という地名になった。アイヌ語にそのまま漢字を当て、下流の砂川市は意訳したもである。取れてしまったペンケは現在ペンケ川となって残っている。川から派生した地名に、上歌、新歌、弁慶台などもあり、かっては札串という地名もあったらしい。これはアイヌ語のサックシオタウシナイ、夏通るオタシナイで、夏の減水期にこの川を伝って山越えした、生活道路でもあった。(更科源蔵著・アイヌ語地名解1982年)
 さて、福島県内に集中的に点在する、翻訳不能のアイヌ語地名について、ぼく個人の独断と偏見を交えながら考察してみよう。
 縄文時代末期、阿武隈川支流の一本が阿武隈山地へ入り込んだ一角に、ニ、三十人のアイヌの人たちがコタンを形成し、生活していたと仮定しよう。阿武隈山地はあまり急峻な山がなく、低い丘陵のような小さな山が複雑に絡み合った台地だ。熊(カムイ)、鹿(ユク)など大型哺乳類が豊富に生息していたに違いない。支流には阿武隈川から、サケ、サクラマスも上っていた。コタンから少し上流に滝があって、そこが彼らの漁場になっていただろう。滝があったから、その川をソ・ナイと呼んでいた。そしていつしかコタン(集落)は、川の代名詞としてソーナイになった。他の場所では、川にたくさんの魚がいて、彼らにとって大事な川であればポロナイ、またはポナイと呼んだし、川底が黒ければクンネナイ、砂の多い川なら、オタナイだ。そこでも川名がコタンや土地の名前になっていた。
 時代が下り、稲作文化を引っさげて、弥生人たちがこの地方へ侵入してきた。当然言葉や生活スタイルの違いから葛藤が生じる。小競り合い、小規模な戦争などが繰り広げられて行った。しかし争いばかりではなく、場所によっては融和し、混血などもあって、短い期間にしろ共存した時間があったと考えた方が妥当であろう。たとえ闘争的弥生人でも、先住民を徹底的に抹殺はしなかったようだ。そうでなければ、地名など残らなかったはずだ。
 アイヌ民族の生活基盤は、海、山、川など自然環境そのものだったから、ひとつひとつの山にも名前があり、最源流の支流にまで名前が付けられていたはずなのだ。ところがそれらの呼称が、弥生人に引き継がれる前にアイヌの人たちはその地を追われたのであろう。本流や集落の名前はかろうじて残ったものの、源流や山々にアイヌ語の痕跡がないのが証明している。
 もっとも、弥生人は稲作農民だから、川に関しては小規模な灌漑を施した程度で、直接山や川に生活の糧を求める必要はなかった。だから、呼称もいらなかった?山や支流に名前のない空白の時代が、数世紀にわたって続いただろう。台風、日照りなど自然条件に左右されたとはいえ、彼らは収穫の喜びを知っていた。生活は豊かになり、補助的に動物や魚の蛋白源を求めているうちに、狩猟や釣りの楽しさも覚えていったに違いない。文化は発展し、いつしか狩猟も漁労も分業という専門集団が生まれ、必然的に山や渓谷の名称が必要になった。一方稲作農民は、製鉄技術が入ってくると、より大規模な灌漑施設の構築が可能になり、精神文化共々生活は豊かになって行く。しかし彼らは、どうしても自分たちで解決出来ない問題を抱えていた。言うまでもなく自然現象である。豊作をもたらす水は常に山のほうから流れてくる。母なる山、という素朴な概念は、山岳信仰の形で、原始的宗教を生み出した。そのときあらためて弥生人の言葉で、山に名前をつけた。彼らの祈りの気持ちを端的に表している言葉が、現代社会にも残っている。稲妻、稲光、そして自分の妻を揶揄して山の神という。
 灌漑技術は豊かさをもたらし、その結果人口増加を引き起こした。人々は流域の湿地帯や山間部のより過酷な土地を開墾し集落を形成していった。そして自分たちの集落の名前が他と区別するために必要になった。周りを見渡せば,○○ナイ,××ナイと言う集落が存在していた。新しい開拓者は,ナイという言葉を村とか部落の概念で理解したに違いない。古い弥生時代の単語をナイの前につけて,自分たちの集落名にしたのであろう。やがて卑弥呼などが国家形態を確立し、大陸から文字,仏教文化も入ってくる。このころになると,ようやく歴史上に日本国が登場する。人口は増えつづけ,入植はつい50年前の現代まで継続していた。
 多分江戸時代だろうと想像するのだけれど,文字を理解し,自分の名前を持った農民も入り込んできて,新しい村に三郎内,五郎内などと名前をつけていた。開拓した田んぼが7斗しか米が取れなければ,七斗内と呼び,5斗だったら五斗内になった。家の前に榎が生えていれば榎内などと命名したのであろう。古い弥生言葉は音声だけが漢字に当て字されて,まるで意味不明な地名として残ったのである。
 川から派生したとはいえ,地名は以上のような経過を辿ったのに対し,川の名称は余り変化しなかったので解読可能なものが多い。他方川名は消滅しても、派生した地名が残っていて、大昔の川名が想像できる。宇津野、市野々などはその代表的な地名であろう。庄内、惣内、相内なども多い。新潟県内で散見できる、鬼とか歌地名もアイヌ語と思って間違いない。
 全国をさすらう渓流釣り師にとって、川の名前はアイヌ語、日本語に係らず興味がある。そして情報源でもある。だから初めて訪れる川でも、その状態をある程度予見できる。現実に訪れてみて、なるほどこの特徴を名前にしたのか、と納得できたときは楽しい。
 秋田市から内陸部へ20`入った川辺町に、岩見三内がある。ここは素晴らしい渓流釣り場で、もう30年も通っている。雄物川支流の岩見川が2本に分かれ、三内川、大又川となる。さらに丸舞川、杉沢川、小又川などの支流があって、1週間でも足りないくらい釣り場は多い。
 新潟市から290`、最初の訪問地だ。三内とは、3本の川があるからサンナイだろうとつい最近まで思っていた。ところが、青森県の三内丸山遺跡が脚光を浴びてからは、間違いだったことに気がついた。三内丸山には,1本しか川は流れていない。北海道に2,3箇所ある珊内と同じと考えれば納得する。ところが、サンと言うアイヌ語は、出る、流れる、下るなどの動詞であり、山から里へ、川上から川下へと言う名詞の接続形にも使われていた。「流れ下る川」では余りにも常識的すぎておかしい。アイヌ民族は川を道路として使っていたから、漁や狩猟の帰り道の意味でサンナイと呼んだのだろう。
 ぼくは高校卒業まで魚野川のほとりに住んでいた。子供のころ近所のお婆さんが、魚野川をわざわざ「流れ川」と呼んでいた。川は流れているから川というのだろうと、子供心に思っていたから、お婆さんの言い方になんとなく違和感を覚えた記憶がある。社会人になって相当経ってから、カワと言う概念の歴史的経過を知ったのである。カワは南方系の言語と言われていて、湧き水も、池も、水溜りも、水のある所の総称をカワと言ったのである。だから、流れカワ、湧きカワ、カワヤ(むかしのトイレ)などと区別する必要があったのだろう。そしてこの言い方は明治、大正時代まで続いていただろう。地方によっては、つい最近まで残っていた。
 ふとそんな事が頭をよぎって、サンナイも流れ川でいいのかと思ったけれど、現代日本語と同じように,アイヌ語は水に関して多様な表現があった。湖や池、沼はト、湧き水はメム、そして川はペッやナイである。だから流れ下る川という川名はおかしいのだ。ペツは比較的大きい川、ナイは沢や小規模の川と言われているけれど、あまり明確な区別はないようだ。川と河の違いみたいなものかも知れない。
 東北地方のアイヌの川名は、圧倒的にナイが多く、ペツは青森県の今別などで、あまり多くは見当たらない。
 古代の稲作は、寒冷地では難しかったのか、東北地方北部では、弥生人がアイヌ民族と接触したのはおそらく、古墳時代初期くらいで、急激にはこの地を席巻できなかっただろう。だから阿武隈山地や阿武隈川流域とは違い、共存した時間が比較的長かったのか、ナイやペツをはっきり川と認識していたようだ。したがって意味不明の地名は少ないけれど、現在はアイヌ語そのものが消滅していて、解読不能の場所もある。
 最近橋のたもとには、大抵看板が立っていて、川名を二ヶ国語で表示してある。
 いわく、阿賀野川=Aganogawa River    西川=Nishi River
 というように二通りの書き方があるようだ。新潟には石川川という川がある。英語表示なら Ishikawagawa River とするのだろうか。冗談はさておいて、固有名詞を他国語に訳すのは難しいのだろう。アイヌ語も三内川、胎内川というような日本語表記になるのが多い。また、谷根川(Tannegawa)や打当川(Uttougawa)のように、内を川にしたところも結構ある。ぼくの大好きな秋田県を代表する大河、雄物川は、オモヌペツ(河口が波静かなところの川)だったかもしれない。
 さて、東北渓流つりの旅を先へ進もう。
 岩見三内は、秋田県の中心部で、へそ公園がつくられている。その真下に岨谷峡がある。僅か1Kmに満たない区間には、細い車道兼遊歩道が整備されている。30年前初めてここを訪れたとき、歩道から竿を出しながら釣り上った。あくまでも透き通った水、対岸の岸壁が作り出す渓谷美に陶酔した。釣れてくるイワナ、ヤマメのなんと綺麗だったことか。かっての森林軌道跡は人っ子一人通らず渓流釣り師にとって、まさに桃源郷に思えたものだった。岨谷峡を過ぎると小又川が合流している。この支流も思い出がいっぱい詰まった渓流だ。2Kmくらいは田園地帯を流れているけれど、決して単調ではなかった。かといって山間部へ入っても、険しい渓相にはならなかった。2,3箇所だけ難渋したけれど、どこまでも川通しに行けた。


岩見三内の祖谷峡入り口

 小又川は、源流部に近いところに大きな滝があって、その上に「スギノ子」と呼ばれる陸封型(現在は河川型と言う)のヤマメが生息していると聞いていた。そのヤマメにぜひ遇いたかった。でも滝までは遠く、いつも途中で引き返してしまった。右岸のソマ道を2,3時間歩けば行けたものを、つい釣りが優先してしまったのだ。いつも滝のはるか手前で、魚篭が重くなってしまったのも理由の一つだ。
 北の渓流では、陸封型のヤマメは貴重な存在だ。スギノ子の聖域として、そっとしておこう。そう考えるようになってから20年以上、この川には近づかなかった。
 今は林道が整備され、あの滝の上流まで簡単に行けてしまうのだ。スギノ子はどうしているだろう?
釣り人や密漁者に捕り尽くされてしまったのだろうか?それともヤマメの激減を補おうと、漁業組合で養殖ヤマメを、安易に放流してしまっただろうか?その後の消息を聞かない。もし残っているのなら、早急に保護対策を講じて欲しい。もしかしたら、ここで特殊な進化の道をたどる、貴重な遺伝子をもっているかも知れないのだから。
 小又川に別れを告げ、広いハイウエー並みの舗装道路を進み、トンネルを抜けると淀川の支流、船岡川につきあたる。この川もむかしの面影はない。上流部に協和ダムが出来てからは、すっかり釣り場としての魅力が失せてしまった。この流域にも、アイヌ語地名が残っている。庄内、宇津野、野田などだ。
 宇津野は、ぼくにとって忘れがたい地名なのだけれど、どこの宇津野へ行っても、共通した地形的特長がある。背骨に肋骨が交わるように、本流へ支流が直角に流れ込んでいる所だ。つまりアイヌ語でウッツ・ヌなのである。実は母親が宇津野という村の出身で、長男のぼくは里帰りした彼女から生まれた。湯之谷村の佐梨川には、細い支流が流れ込み、大きなイワナがいるのをみつけると、従兄弟と捕りにいったのをおぼえている。
 宇津野地区から曲がりくねった林道に入り、小さな峠をいくつか越えると,R46に出る。途中、宮田又沢川、荒川、繋川などを通る。いずれも少しヤマメがいた。小1時間で角館町へ入った。クランクが何箇所かあるけれど、通いなれた道だから迷うことはない。いつ通っても観光バスが停まっているのは、東北の小京都と言われるこの町の、武家屋敷を訪れたのだろう。サクラの季節には、とりわけ賑わいを見せているけれど、ついぞ寄ったことがない。何十回ここを通り過ぎたことか。いつかは観光客になって、この町で泊ってみよう。
 町のはずれでR105に入る。後は桧木内川に沿って進むだけだ。この川の支流もアイヌ名が多い。比内沢、小波内沢、堀内沢、相内沢などは釣りで入ったところだけれど、まだ小さな沢がある。R105で最初に出会う支流は潟尻川だ。国道に沿っているにもかかわらず、意外性のある川で、水量の多いときには楽しい釣りが出来る。この川と相内沢は、田沢湖の方から流れていて、通りがかりにちょっと竿をだしてみる価値はある。
 今から20万年ほど前の氷河期、この2本の内、どちらかが田沢湖と繋がっていたのだろう。雄物川、玉川、桧木内川とベニジャケが産卵場所を求めて溯上していた。幾多の滝を乗り越え、ようやくたどり着いた田沢湖は、産卵前の休憩場所だった。湖に流れ込む渓流で産卵を終えた直後、突然地震が襲ってきた。そのときの地殻変動で、流出する渓流と湖は物理的に遮断されてしまった。孵化した稚魚は海へ帰るルートを失なったのだ。しかし日本で一番の水深(432.4m)を持つ田沢湖は、塩分はないけれど、稚魚にとって海の代わりとなりえた。数千年、数万年の世代交代を繰り返すうちに、湖に適応し、ベニジャケ本来の形質から劇的に変化していった。春と秋に産卵する、2系統に分化していたのだ。それが田沢湖だけに生息していた日本の固有種、クニマスだ。でも今はいない。人間の不注意から、絶滅に追い込んでしまったのだ。
 壮大な渓流釣り師の夢は、クニマス復活のプロジェクトに賭けることだ。そのシナリオはすでに出来上がっているけれど、この事は別稿に譲り、さきへ進もう。
 桧内川の渓流釣り場は、30Km以上もあって、国道が分水嶺に向かう直下まで続く。願わくば、いつまでもダムや砂防堰堤のない川であって欲しい。
 分水嶺を過ぎ、繋沢に沿って下って行く。峠をおりきったところに右から打当川、左から比立内川が合流して阿仁川が始まる。秋田、岩手県境にある兄川と同一語源と思うのだけれど、ア・ニ、つまり木の多いところの川という意味だ。したがって比立内は、ヒ・タッニ・ナイ、樺の木の沢だ。この界隈は渓流釣りでも有名なスポットになっている。比立内は、田代町の早口川の隣にもある。
 阿仁川ルートを通って必ず立ち寄る川に、小様川がある。適度にヤマメがいて、釣りやすい川だ。小様川もアイヌ語だと信じているのだけれど、そうだとしたら珍しい形容詞の川名だ。コサマは〜に似たとか、〜と同じようなと言う意味だ。だから本来の名称はコサマ○○ナイと言ったはずだ。○○に当てはめる適当なものは一体なんだろうと想像してみるのも楽しい。北海道にはズバリ、ピリカナイがある。
説明するまでもなく、[美しい川]である。内地には、美川と言う名の川はあるのだろうか?ぼくは知らない。せいぜい知っているとしたら、美川憲一くらいのものだ。
 駄洒落ついでにもう一席、おかしくない、笑ない話。阿仁川流域の地名に、笑内がある。地元の人なら読み方は当然知っているけれど、遠来の人にはちょっと難しい。ぼくも最初、庄内、惣内、相内などと同じものだと勘違いしていたのだ。つまりアイヌ語のソ・ナイまたはソ・ウン・ナイに当て字したのだろうと思っていた。ところが正式な呼称は、文字通りおかしな読み方なのだ。
 集落の1Km上で、ちょっと大きな支流、鳥坂川が合流している。アイヌの人たちは、よく合流地点に狩小屋を建てていた。そしてその場所を、川の尻の意味で「オ」と言った。小屋はサケを捕っていた漁小屋だったかもしれない。それをアイヌ語で「カシ」と言う(前出)。
 川尻に狩小屋のある沢。オ・カシ・ナイ=おかしない=笑内というわけだ。
 東北の釣り旅で必ず泊る民宿がある。鹿角市郊外赤平地区の[八幡平山麓荘]だ。そこへ夕方の5時には到着しなければならない。先を急ごう。R105と285が森吉町の米内沢でぶつかると、阿仁川を渡る。約5Km先に小猿部川がある。今までこの川で釣りをした記憶がない。地図で見た限り、上流部に亜鉛や銅鉱山が点在していて、魚などいないだろうとの先入観があった。今回はどうしても入らなければならない。なんたってアイヌの残した川なのだから。 
 上流部羽立集落で、松沢が合流するあたりから、川へのアクセスが楽になる。相棒をここで降ろし、ぼくは最終の明利又から入渓した。約1Kmで仙戸石沢が合流する。この間川底は泥岩で、所々深くえぐられた流れがあったけれど、ポイントは少なかった。少ない分だけ、確実にヤマメはいた。仙戸石沢は、水量が多く、むしろこちらが本流と思えた。最初の林道の橋までさらに1Km、こちらはポイントの連続だったけれど、魚影は薄かった。上流部にキャンプ場が出来ていて、釣り人が多いのかもしれない。今度訪れるときは真夏じゃなく、もう少し水量のある初夏にしょう。
 小猿部川はオ・サル・べまたはオ・サル・ペッなのだろう。川尻に葦が生えている川の意味だ。この川の下流部から、米代川の合流点にかけては当時湿地帯だった。現在もその面影は残っていて、葦が生えている。支流、品類川の名前が、このあたりの特長を如実に物語っている。ピンニ・ル・イ
ヤチダモが川に沿って生えているところの川。たしかに現在もかなり上流までびっしり生えていて、まるで釣りには向かない川だった。
 鉱山で有名な尾去沢も、釣りは出来そうにないけれど、やはり同じ語源だ。実際のアイヌ語の発音はどうなのか、サルサリはどちらとも聞こえる、中間的音なのだろう。
 小猿部川を後に、R285は間もなく直角に右折する。3,40分走ると、犀川だ。この川はウグイが多く釣り場としてはあまり魅力がない。本流は、休間内沢が合流するあたりから、イワナもヤマメも姿を見せ始める。しかし1Kmも行かないうちに護岸帯がきつくなり、堰堤が連続してくる。いったん川へ降りると、堰堤を越えて上流へは行けない。護岸帯を過ぎれば自然の渓流に戻るけれど、イワナだけになる。休間内沢はほんの小さな沢で、イワナだったけれどヤマメも少しいた。この沢の呼称は、ヤシマナイと読む。アイヌ語ではヤシ・オマ・ナイのはずだ。意味はいつも魚を捕るところの沢。そして本流のアイヌ名はチエプ・サイ・ペッ。魚(サケ)が群れている川、あるいはチカプ・サイ・ペッであった。いつしかチカプ(鳥)チエプが脱落、犀川となたのである。秋田の仙北地方には、斎内川もある。
 最近立派なトンネルができ、大葛温泉から夜明け島川を経て、宿へ行く近道になった。夜明け島川は、渓流釣り場としては比較的知られた場所だ。最初訪れたのは、そのユニークな名前に惹かれたからだ。今から10年前であった。もちろん当時はアイヌ語に関連させる認識はなかった。
 現代日本語で「島」は、海上に浮かんでいるけれど、内陸部で使われるときは、一族が集団で住んでいるようなニュアンスがあった。現に生まれ故郷のそばに島新田という集落がある。又ヤクザの縄張りも島と言った。そんな貧弱な知識で夜明け島の由来を考えても、明快な回答は浮かばなかった。さりとて今、アイヌ語を当てはめて見て、その意味を探そうとしても至難の業に思える。結局、語呂が一番近く、アイヌ民族の生活様式から想像して、ヨコ・アク・シマチチ・ナイに到着した。この意味は、体を縮め、待ち伏せして(獲物)を射るところの川である。それとも、ヨコ・アク・シュムアン・ナイ
[獲物を射る待ち伏せの、西にある(米代川から見て)川]とでも訳せばいいのだろうか。またはヨコ・アク・シュマ・ナイ〜する石ころ(岩)川ともとれるのだけれど___
 勝手な解釈をされて、夜明け島川が怒ったようだ。ヤマメはなにも釣れなかった。おまけに予定時間をとっくに過ぎていた。ここから宿までは10分もかからないけれど、岩見三内と小猿部川で釣ったヤマメを、から揚げと塩焼きにして貰わなくてはいけない。出来るだけ早く宿に入って、熱い風呂に飛び込もう。
 赤平は熊沢川の河岸段丘にある4,5軒の集落だ。年に2,3回は泊る民宿、八幡平山麓荘はその中にある。ぼくたちの好みを知っていて、特別予約しなくても必ずキリタンポ鍋が付く。ヤマメは余分に料理してもらい、同宿者がいるときは一緒に食べる。知らない者同士会話も弾み、風呂上りのビールがこたえられない。
 去年までは赤平にきて、何の気なしに熊沢川で釣りをしていた。ちょっと待てよ、もしかしたら、赤平はフレ・ピラで熊沢はカムイ・ナイと言ったのかもしれない。などと考えてしまった。フレ・ピラは赤い崖の意味だけれど、どこを見回しても赤い岸壁など見当たらない。やっぱりこれは考え過ぎのようだ。
 丸一日かけて秋田県を斜めに横断し、アイヌの残した渓流を探訪してきた。二日目も同じパターンの説明をしても、興味のない人には退屈極まりないに違いない。一旦、この旅はここで終了にしよう。
そして、読者の要望があれば、いつかこの続きを書いてみたい。
 
 行き詰まった消費文明、荒廃した自然環境と人の心、混沌とした現代社会において、アイヌ民族が残した地名を辿ることによって、今こそ必要な彼らの精神に触れることは、決して意味がないとはいえない。だから、文章に書く書かないは別にして、ぼくの渓流釣りの旅は、しばらくアイヌ地名を辿る事になる。
 このエッセイに書きながら、説明をしなかった地名市野々は、全国で20箇所ほどある。岩手県一関市の磐井川支流に、市野々川もある。市野々=イチャン・ヌ・ヌ、アイヌ語で
[サケの産卵床の(たくさん)ある所]の意味だ。来年は是非とも市野々巡りを計画しよう。原生に近かったかっての産卵場所は、現代ではどのような変貌を遂げているのか、しっかりと見て報告したい。まさにこの事こそ、ぼくたちが,これから取組もうとする事業の、基礎調査になるのだから。       (終わり)        

  民宿・ [八幡平山麓荘] Tel 0186-31-2356

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