山百合

 
ここを終の棲家と決めてから3年になろうとしている。若いころからのささやかな夢だった書斎を、古い一軒家の物置を改造して作ってしまった。北西に面した1間の壁を破りアルミサッシを入れ、床には絨毯を敷き詰めた。たった3畳の部屋にエアコンも入れ、明るすぎるくらいの照明器具も取り付けた。タバコを止めた今は必要なくなったけれど、天井には換気扇もつけ、電話、TV端子、電源コンセントと、ほとんど一人でやった。30年以上使ってきた机は、ゆうに1畳はある大きなもので、捨てがたかった。両脇を削り押入れだった場所にはめ込んだ。今年になってデスクトップが入ると、机も窮屈になってきた。壁は本棚になっていて、椅子に座ったまま取り出せる。狭くてもここは自分の城なのだ。子供が小さな部屋に閉じこもるのは問題だけれど、60を過ぎた男の事だ、まあいいか。よもやこの年になって、パソコンをやろうなどと夢にも思わなかった。ホ.ームページ創りに熱中し、物を書いているのだ。あまりゾッとしない光景かな。
 70坪の敷地に小さな平屋。だから庭はたっぷりとある。一角に畑を作り、野菜の一部は自給自足だ。残りのスペースは、里山を想定したビオトープを作りたいと思っている。フクジュソウ、カタクリ、ノカンゾウ、キクザキイチゲなどの草花、ミツハアケビ、キイチゴ、クサイチゴ、グミ、クワなどの低木類を少しずつ植えている。もちろん山から勝手に持ち出すのは違法なものもあって、正規のルートで手にいれるのだけれど、完成まで何年かかるのやら、さだかではない。実のなる木が多いのは、山野を駆け巡って食べた、少年時代の刷り込みのなせる業だ。
 クサイチゴはいわゆる草ではなく、60センチになる低木で、バラの仲間だ。白い花をつけ、実は小粒の核果がたくさん集まって、直径1センチになる。赤く熟し、香りもよく甘い。しかしこれを植えたのは誤算だったかも知れない。雑草を排除したたっぷりの堆肥条件に反応して、物凄い繁殖力なのだ。去年植えた2本が、1年で数百本に増えてしまった。地下茎がどこまでも伸び、株を立ててゆく。こんなにおいしいイチゴを、先人が庭へ植えなかった意味がわかった。その藪の中に毅然と立ち上がって、大輪の花を咲かせているのが,1本のヤマユリだ。2m以上離してクサイチゴと同じ時期に植えたものだ。
 梅雨明けから8月上旬にかけて、里山の斜面をヤマユリが彩りを添える。決して悪臭ではないけれど、強烈な花の匂いは車の中まで押し寄せてくる。これはこれで季節の風物詩なのだ。
 7月の末、友人とヤマメ釣りに出かけた。雨上がりで絶好の条件が重なり、尺ヤマメの5連発に遭遇した。40年も渓流釣りをしていながら、これは空前絶後の経験に違いない。釣りはそうそうに引き上げ,帰りは相棒に運転をまかせ、双眼鏡で山の斜面を見ていた。ヤマユリを探していた。群落は少なくなったとはいえ5,6本のかたまりは所々で散見できた。 
 R345はまだ完全に整備されていない区間もある。曲がりくねった山道から、雑草に覆われ轍も見えない農道を下りて行った。葦の中を流れる小さな渓流に突き当たる。農耕車がやっと通れる橋がかかっていた。ここはときどき帰りによるところだ。葦が生い茂ってポイントは少ないけれど、ヤマメもイワナも釣れる。前日の雨で大水が出たらしく,葦がことごとくなぎ倒されていた。水中の石は洗われ流れは美しい。濁流が収まり,水が澄み始めた直後の渓流ほど、釣にとっての絶好機はない。そのことは誰もが経験で知っている。相棒はまた竿を伸ばし始めた。障害物がなくなり,土手の上から簡単に釣れそうだ。Goodluck!
 カメラをぶら下げ、降りたところで見つけたヤマユリに向かって小道を歩いていた。
 「熊でも出てきただかね」
山道がカーブしていて、ぼくの位置から死角だったのか、双眼鏡を覗いていて気づかなかったのか、いきなり背後から声を掛けられた。草刈をしていた農婦だった。
 「あれを見ていた」
 10メートルほど先のヤマユリを指差して言った。
 「ああユリか,食べるとうんまいよ。まだちょっと早いがね。このあたりじゃ花が終ってから掘るがね」
 ユリ根の盗掘にきたと思われたかもしれない。
 「写真を撮りたくてね」
 彼女の疑惑を晴らそうと、ことさらカメラを高く掲げて見せた。
 撮影を終って、草刈の済んだ斜面に座った。雨上がりの日差しは強い。草いきれが、遠い昔の一瞬を既視感と共に思い起こさせる。そんなたわいも無い時間の重なりが、残り少ないぼくの人生を綴って行くのだろう。
 草刈り機を肩からはずすと、彼女もかたわらに腰をおろしていた。しばし雑談。手や顔に刻まれた彼女の年輪を見ながら、農村生活の一端を想像していた。初老の感じはするけれど、思ったより若いのかも知れない。 別れ際にねだって貰った一株のヤマユリは、家に帰り着くまで冷房の効いた車内を、強烈な香りで満たし続けていた。
 この時季、地表面には何の痕跡もないフクジュソウの根っこを傷つけないよう、空きスペースを探して植え込んだ。必然的に去年の個体と比べていた。なんとその違いに驚いた。庭で成長し咲いたヤマユリには匂いが無い。背が低い。花びら中心部の黄色のアクセントが脱落している。茶色の点々も消えている。まるで違う種類になってしまったようだ。野性の中で他の植物と競合しながら背を伸ばし、強烈な匂いを発散させて昆虫を呼ぶ。それがやはり本来の姿なのだ。ビオトープが完成したとき、このヤマユリは野生を取り戻すのだろうか。
 近頃の人間社会を観察すれば、衣食住は満たされ、必要なものは必ず手に入る。しいて争わなくても生きて行ける。ぬるま湯的な環境の中で、野性味を失い軟弱になって行く子供たちの姿をふと想像した。( 三沢渓風 
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  庭のヤマユリ                 野生のヤマユリ

              

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